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写真を撮るときに思うこと

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ズボラ写真館へようこそ。


2週間前にデジカメの充電器が部屋の片隅から発掘されたのを機に週末は写真を撮っています。私はフォトグラファーでは全くないのですが、写真を撮るという儀式めいた行為がもたらすリラックスとリフレッシュの効果が好きで時々は写真を撮ります。

ほとんど自己満足のための写真撮影の結果でも「わたしも写真を撮りたい」とか「どうやって撮るんですか?」と誰かの興味を惹くことがあると志しに応えてあげたいなと思ったりします。だからそういうときのためや自分自身のためにも撮った写真のレビューをするのが習慣になっています。今日、ウェブ上を見ていると写真は掲載していても文章がなくて作家さんがどういう考えで撮影したのか真意がわからないことがありますが、ここでは漫画や映画におけるあとがきやコメンタリーを写真を題材にやってみようという試みです。有名な写真についてとやかく書けませんので私が撮った拙い写真ですが参考になれば幸いです。


鉄扉

被写体には「マグロ」と「鯛」があります。これはマグロ寄り…「ハマチ」くらいかな。なんのことかわからない?ええと、マグロを嫌いな人は少ないですよね。でも調理法が限られます。せいぜい炙るくらい。あとはひたすら鮮度だとか素材の質を高めていく方向に絞られますよね。そういう被写体のことを私は「マグロ」と呼んでいます。デザインの勉強をしていた頃に習ったことなのですが、上達のためには「人物と動物は使うな」というのがあります。細かくいうと「アイドル、子ども、犬、猫、キャラクター」あたりが特にご法度です。これらは「大トロ」です。好感のインパクトがある反面すぐに飽きられてしまう。近年のゆるキャラブームなどまさに悪い面が出てきていて、もうあまり話題に出てこない。多くの人が食傷気味なんじゃないでしょうか。

そんな「マグロ」を使った写真の良さは往々にして被写体の良さであって撮影者の腕の良さではない、それを誤解や錯覚しないため、腕を磨くために、良い被写体は撮るな・使うな、という教えがあるんです。
現実に、観光写真コンテストみたいなところで賞をもらおうと思ったら「マグロ」を使うのが近道ですが、キヤノンのコンテストやBehanceのようなプロが集う場所で評価を得るには「鯛」を扱えないといけない。それと「玉子」と「茶碗蒸し」ですね。扱いが難しいものや、素人と同じ素材・同じ器具を使っているのに「美味い」というのがプロなわけです。

そんなわけでこの写真は「ハマチ」。これは扉ですから見た人に与える印象が大きいです。「向こう側はどうなっているんだろう?」「何か出てきそう」と思わせてしまうんです。しかもこの形ですから真正面から撮る以外にベターな撮り方がない。そもそも建築物は「これがいい」と思った人がいたから建てられたものですから基本的に美しい。あとは好き嫌いの問題です。私はこの写真を気に入っているんですが、同時に「大したことないな」とも思います。

それでも「ここがいいな」と思うポイントはあるので書いておきましょう。この写真の場合はファンタジー感を生んでいる点は気に入ってます。「いつ」「どこで」撮ったかを写真の中に捉えていないから現実味が薄れています。「落ち葉」と「緑の草葉」がさらに時期性を失わせていて、陽光の加減もよくわからない。実は斜面に建っているので(どんな建物も水はけのために僅かな斜面に建ってますが)ホライゾンが傾いていて不安感を与えています。ひび割れたコンクリートと錆び付いた鉄の扉は象徴的ですが、よく見ると全体に変なところが散りばめられているんです。

人間は意識的には被写体──それ自体が恣意的に存在させられるもの──を見ているので、写真全体を使って無意識に対して働きかけることができると撮影者あるいは表現者としての高揚感を味わえるんじゃないかなと思います。背景をぼかして見えなくしてしまうのではなくて、見せるけれど邪魔せず、むしろ被写体を引き立てるように撮れたら気持ちいいってもんです。

この写真はRAW現像を終えてからタイポグラフィを加えようか一晩ほど悩みました。結局、被写体が良いからやめました。わざわざ隠すことないな、と。タイポグラフィ自体が世界的に下火だというのもあります。グルーバル化が進んで言語が入り乱れているからでしょうか、特定の言語に依存してしまうタイポグラフィは活躍の機会を減らしているように思いますね。


晩秋の赤谷

もうひとつ取り上げておきましょう。すでにfacebookに投稿した写真ですけど…これは「イワシ」かな。大都会に暮らしているのでなければ珍しい被写体ではないです。それゆえにどう撮るかはさきほどよりも難しいかもしれません。実は奥に写っている建物は小学校なので土地に暮らす人々からすると殊更に当たり前の風景です。こういう被写体は気を遣って撮りたいと思いますね。

写真の善し悪しを確かめる方法に、展示した場に被写体があっても写真のほうを見てもらえるか、というのがあるでしょう。「写真もよかったけど本物はもっといいな」ということであれば、その写真は被写体を劣化させて収めているということです。そして「イワシ」のような身近な被写体であれば実際に見に行けるのであり、被写体に負けるとはつまり「撮らないほうがよかった」ということを意味すると思います。生でお出しするよりも美味しくなければ手を加える意味がないですよね。土地に暮らす人々が見ても満足感があるような写真を撮りたいと思います。

一方で、見慣れているからこそ見落としているかもしれない点を捉えて面白さを生み出したいとも思うものです。私がこの土地に行って感動したのは人間の営みと自然とがせめぎ合いながら共存していることでした。野生の猿が民家に現れて、私からも5mほどの距離に来たりする、そういう土地だったんですね。ですから、この写真は農作業小屋を撮ったのではないんです。

人間の営みは直線、自然の形態は曲線に見ることができます。左手前の砂利敷きと草むらとの縁は直線です。そして水路も、畑も、直線が見えます。人が手を加えていなければ雑草でボーボーになる部分です。ここがブタクサだらけだったら撮るのを躊躇ったでしょう。そして、だけれども、緑が繁茂している。不必要に除草剤を使ったりしていないのでしょう。ここの管理をしている農家さんは、かなりやり手です。もし農家さんに会ったらこの写真を見せて「あなたの作品です」と言いたい。そしてどう素晴らしいかを伝えたい。余所からやってきた者としての視点を示すのが礼儀のように思ったりします。

でも本当は、撮影の瞬間にはここまで意識が及んでいないです。ただ「撮影する価値がある」と思うというか、「これは撮っても伝わらない」とか「写真にすべきじゃない」という瞬時の判断があってカメラを構えるかどうかを決めています。私はシャッターをあまり切らないのでこの農作業小屋もさきほどの扉もワンショットずつしか撮っていません。動物を撮るときは枚数が増えますが、静物を撮るのに偶然いいショットが生まれるということはないですから「コレ!」という確信が生まれるまではカメラの電源も入れないんです。まぁ、ズボラなんです。

さて、この写真については晩秋の物悲しさを写し取りつつも寂しくなりすぎないように気をつけました。これは土地に暮らしていない人々のための気遣いです。ともすればただの過疎村に見えてしまいますし、それは事実でもあるわけで、しかしそれすら「味わい」にしたい。できるなら「ここに観光に行ってみたい」なんて思わせられたらいいですよね。

この問題への解決法としては人物を入れて明るく生き生きと見せるのが簡単ですが、そうすると見る人は人物だけを注視しがちになってしまって「じんわり」と来るものを伝えづらい。人物を入れずに人の気配を入れるためには前述の手入れされた空間が必要でした。作業機具が小屋から出ているのも「やりかけ」っぽくて良かったです。被写体に恵まれました。あとはどこまでを撮るかです。近景については前述しましたが、遠景にも一瞬悩みました。中央奥にある小学校の校舎、左右の遠くに見える建物、遠くの鉄塔、空…何をどこまで撮るか、自分の立っている場所はここでいいのかどうか、しゃがむべきか背伸びするべきか、でも三脚は…出しませんでした(ズボラ)。
結局、人間の仕事と自然の仕事のバランスをみて写し込むことで「このくらい」になりました。「このくらい」というのは私の感性であって、こればかりは文章化が難しいですね。

テクニックについて書くと、この写真は小雨が降る中で撮影しています。ビギナー向けの指南書を読むと晴れの日に光の向きに気をつけて撮るように書いてあるのですが、そうすると雲の表情が面白くない日が多いので私は好みません。もちろん、きれいな写真を撮るためには光が強いほうがいいのは確かです。シャッタースピードが短くなるので動く被写体もブレにくいですし、彩度もコントラストも高い。これらはあとからレタッチで崩すことは容易でも、破綻したものを自然な状態にまで修復するのは不可能に近いです。

でも指南書のとおりに撮ると「そういう写真」しか撮れない。当たり前ですけど。だから「ダメ」って言われていることが本当にダメか確かめてみる。この場合、雨の日に撮影することは問題ないんですね。ただし、かなり難しくなる。例えば雲の表情を撮るためには雲に対して横から光が当たっていないといけないですから雨雲が厚く垂れ込めていてもダメ。タイミングも朝夕の短い時間に限られます。車で移動しながら「今すぐ降りて撮るべきか」と迷う。手持ちで撮影できるだけの光量がまだあるか、グズグズしているうちに雨が本降りになると画が変わってしまう。──晴れの日の昼間のほうが楽に撮れるのは間違いないと思うところです。

私が使っているデジカメに手振れ補正がついておらず液晶での確認もアテにならないとあって、どのくらいの光量でどういう足場ならシャッタースピードはいくつまで大丈夫というようなことは感覚的に覚えました。これも素早く確実に撮るための基本のテクニックだと思います。他には、使っているカメラとレンズが得意としているF値を見つけることもテクニックでしょうか。スマホのカメラでも条件が合えばビックリするほどきれいに撮れるのでカメラに対しても力を発揮できるように気を遣ってあげたいですね。

といったところで。アマチュア以上のかたには参考にならないとは思いますが、撮影者が何を思っているのか気になったので自分で書いてみました。私としては感覚が研ぎ澄まされていくのが気持ちいいですね。写真そのものより、写真を撮る行為の中での自身についての学び──なぜ私はこの写真をどのように撮るのか──を知るのを有意義に思います。みなさんはどのようにして写真を撮っているのでしょうね。ぜひこういったことを教えていただきたいと思います。

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